Gutenberg について思うこと。とりあえず。

WordPress を 4.9.8 にアップグレードし、「Gutenberg をインストールをする」を選んだ直後のエントリーです。

いま、エンターを押した直後に「段落」ブロックが生成されました。

今も。ほら。

ブロックが生成されてます。

つい先程、NHK の仕事の流儀で飯間浩明さんの番組を見ていまして、休日で、かつ奥さんと息子がまだ僕の実家で夏休みを過ごしていることもあり、Nothing but 自分の余暇時間を過ごさせていただいている中、One of 自分がほんとにやりたいことの中の一つ、使ったことがない日本語があることが我慢できないという性質と向かい合う時間を過ごしています。

さて、当該番組を見て思ったことは飯間さんの辞典、とくに国語辞典と向き合うスタンスについて。

辞典というものはその存在のそのものがイデア、つまり中央集権的な血の集積物が”ある”という前提に基づいていると思います。

ところで、いまの日本社会を生きている人の中でそんな中央集権的なエンサイクロペディアがあり、そこに準じている、あるいは逸脱している、それを自覚的に逸脱しメタ批判している、と考えながら言葉を綴る人はどれほどいるでしょうか?

言葉は生き物であり、日々、否、だれかが発信するたびに生まれています。

そのなかで辞書に向かい合い、それをなりわいとする飯間先生は中央集権的な辞書の役割ではなく、消費者である読者の個々の体験で以下に可用的に振る舞うことを否としない道を選ばれました。

飯間先生のお仕事をそれと意識して触れたことがないのでその正否を問うことはできませんが、現代社会の中で言葉と向き合う中でその考え方に僕は、当然、全く否定もしませんし、即座に素晴らしい向き合い方あと感じました。

いわゆる職人仕事だと思います。

でも、ほら、いまも言葉は生まれ、消費され、そして消え去って行きます。

僕は飯間先生に師事したいくらいの感動を今感じているのですが、40のおっさんが突然飯間先生に「弟子にしてください!!」って言っても迷惑以外何者でもないことはちゃんと理解してます。

職人仕事はいわゆる属人性のお仕事の局地だと思います。それは個人の特定の技術に対する純粋な能力だけでなく、彼がそれまでどう振る舞ってきたか、彼の人間性、社会性、歴史に極めて依存していると思います。

僕は自分の人間的欠陥を加味し、あらゆる仕事から属人性を配していきたいと考えています。僕が感じたことはエキスパートではない、しかし、先生の考える言葉への向き合い方を持つものは多数いる。ならば、彼らの集合知を育むためのプラットフォームを、仕組みを生み出したい、ということでした。

個々数年、Git に代表される分散管理システムがこれからの知の発展に欠かせないものだと考えています。そういうプラットフォームを僕は作りたいなぁ、と。

さて、前置きが長くなりましたが Gutenberg 。ユーザー体験を考えると、この方向性は全然ありだと思います。

気になるのは可用性。

API ベースで考えるとオレオレ開発であってもカスタムフィールドバリバリの今までの職人さん仕事のほうが優れているのではないでしょうか、というのが所感です。世界の云%が利用しているWordPress 、パブリッシングプラットフォームであるWordPress がコンテンツの内容を今後負のレガシーとなりうるような独自の形式でpost_content 値として永続化していくのにはちょうち大丈夫かなぁ、って思ったりしています。

これからWordPress で口に糊していこうと考えている以上、おそらくGutenberg をスキップして行けるとは考えていないのでこれから勉強していきます。ええ、当然React も勉強しまっさ。

でも、無駄なことはしたくない。変わり続けること、それだけが変わらない、というのがこのブログのタイトルにもわかるように僕の信条です。

世界のプロジェクトの中でもコミットする人数が多い中でも指折りなWordPress 、そんな心配をしている人間なんざ星の数ほどおるでしょう。

でもちょっと心配なんですよね。